あたしの前方で綱吉はゆっくりと歩いていた。 あたしはそれを見ると一度立ち止まって、全力疾走をしたせいで息切れを若干しながらも叫んだ。 「綱吉ぃぃぃっ!!」 と。 ガラスの靴 ぴたりと綱吉は立ち止まって、何秒かしてから振り返った。 (多分本当はたいして時間なんてたっていなかったんだろうけど、あたしにはそれが無限の時間に感じた。 振り向いてもらえなかったらどうしよう、っていう不安のせいで。) 怒っているような、困っているような、微妙な表情を綱吉は浮かべていて、またこいつははっきりしない顔だな、ってあたしは心の中で苦笑した。 「今度は何だよ。」 「忘れ物。」 あたしたちは残っていた僅かな距離を、ゆっくりと、お互いに歩み合うことで縮める。 あたしが、持ってきたテキストをさっと出したのに対して、綱吉は、ゆっくりとそれに手を伸ばした。 それはきっと、まるで何物かが動くことを拒否するような、生ぬるくて少し固いんじゃないかとさえ思わせるような晩夏の空気のせいだけではない。 「あ、ありがとう。」 受け取るとすぐに綱吉は慌ててるみたいに(いや、実際そうなんだろうけど)ぐちゃっとテキストの端が折れ曲がるのも気にせずにかばんの中に入れている。 あたしはそれを見ながらさっきまでは確かに迷っていたはずなのに、「綱吉」とあっさり呼びかけてしまった。 「何?」 綱吉は表情を途端に硬くした。 でもきっと、そんなことを思って、気にしているあたしの方がよっぽど緊張していて、ガチガチなんだろう。 「さっきはごめん。言い過ぎた。あたしの方が綱吉のこと呼んだのに……。それなのにあんなこと言ったり、カッとなっちゃったりしてさ……。」 「いいよ、その位別に。俺、 のこともう怒ってないしさ。それより俺の方こそごめん。あんな言い方しちゃって。」 うん、とあたしはうなずくとそれ以上何も言えなくなって、綱吉も視線を足元の辺りをうろうろさせるだけで黙ってしまった。 あたしの耳には遠くのほうで犬の吠える声が聞こえるばかり。 どの家からかはわからないけれど、夕飯のカレーのにおいまでしてきて、あたしはこんな状況だというのにお母さんはもう帰ってきただろうか? ななさんはもう夕飯なんて作り終えて綱吉のこと待ってるだろうな、なんて考えてしまった。 馬鹿。 今はそんなこと考えてる場合じゃなくて……でもアレにどんだけの根拠があるんだ?って不安にもなって…… 「それじゃ 、俺もう帰るよ。 母さんも待ってるだろうし……。 もおばさんもう帰ってくる頃だろ?」 ケータイのディスプレイを見て、ほらもう7時なんて当の昔に過ぎてるよ。と綱吉は言って、少しだけ悲しそうな顔をした。 そんな顔をしないで。期待したくなるから。胸が、キュッて痛くなるから。 「そうだね。もう夕飯作り始めてるかもしれない。」 「そっか……。んじゃ、また。宿題とか何かわかんないこととかあったらまた電話して来いよ。いつでも行くし。」 バイバイ、と綱吉は手を振った。あたしもつられて手を振る。 いいのか?これで。 綱吉は歩き始めた。まだたいした距離を進んでいないというのに、やけに遠くに感じる。 今手を伸ばさなければずっと手が届かない、そんな感じ。 このままでいいわけなんか、ない。 「綱吉。」 ぴたり、とさっきと同じようにとまってからくるり、と振り返った。 「今度は何?」 呼んだのはいいけど、何を言うかあたしは全然考えてなくって、頭の中は真っ白。 まるで魔法がとけてしまったシンデレラみたいにガラスの靴だけを残されるの。 (あたしはシンデレラみたいにキレイじゃないし、残されたのはガラスの靴じゃなくてルーズリーフだけだけどね。) 「る、ルーズリーフ」 気付けば口が勝手に動いて話し始めていた。 「ルーズリーフが何?」 「あんなこと書いてあったらあたし期待しちゃうんだけどっ!!」 「あんなこと……ってえぇっ!?嘘!?」 慌てて綱吉はテキストとその間に挟まったルーズリーフを取り出す。 あまりにも慌てたから、ルーズリーフはばらばらと地面に散らばってしまった。 「うっわごめん!!」 あたしは生ぬるくて緩やかに流れる風に飛ばされて足元までやってきた1枚のルーズリーフを拾い上げる。 それは偶然にも”あの”ルーズリーフだった。 山本の字で『お前、 のこと好きだろ?』って書いてあって、 綱吉の字で『だったらなんだよ』って書いてある、”あれ”。 「はい。綱吉。」 綱吉に手渡すと綱吉の顔はすっかり真っ赤になってしまっていた。 「 。」 綱吉の声はいつもより幾分トーンが低くて静か。その上少しだけ震えていて 「うん。」 返事をするあたしも思わず静かになってしまう。 「これに書いてあることは嘘なんかじゃなくて」 綱吉ははぁーっと息を吐いて胸に手を当てた。 あたしにはもうそれで充分なのに 「俺、 のこと好きなんだ。」 って綱吉は更に続けた。 あたしは嬉しくて恥ずかしくてうなずくことしかできなかった。 ドキドキしすぎてあたしは死ぬんじゃないか、とかあたしは今一生分の幸せを一気に使い果たしたんじゃないかとか色んなことを割りと真剣に考えたせいで、 本当は綱吉に「あたしもだよ」って言いたかったのにうまく言うことができなかった。 「俺、送ってくよ。帰ろう。」 そう言って綱吉はすこしうつむき加減で右手を差し出した。 いつもの道はいつもと違って見える。 あたしも少し遅れて左手を差し出す。 それはきっとほんのちょっぴりの涙のせいで霞んでしまったから あたしの手は酷く熱かったはずなのに っていうわけではなくて つないだ綱吉の手は 1人じゃなくて2人で歩けるからだ。 同じ位の温度だった。 夏はもうどこかへ行ってしまおうとしている。しいて言うならば南の方へ逃げていくんだ。 あたしに、あたしたちに、きらきら輝く魔法の跡を遺して……。 |