沙羅双樹の木があたしの家の庭に1本だけ植えてある。 花は白くて小さいやつ。あたしはその木を最近までそんなに気にも留めていなかった。
けれど、君が素敵だと言ったその日、少し好きになれたよ。










沙羅










その日はまだあたしが失恋から立ち直っていなくて、毎日が冬の曇った日の鉛色の空の下で日々を送っているような気分という、酷く陰鬱な状態だったときで、 あたしの家にバジルが来たのも、少しでもあたしを勇気づけようとかそういう優しい気持ちからだったんだろうと思う。
実際、そうやってバジルが優しい気持ちをかけてくれなかったらあたしはきっといつまでも家に閉じ籠ったんじゃないだろうか。










「綺麗な庭ですね。」



「そう?小さいじゃん。」



「拙者、庭は広さの問題じゃないと思いますよ。」





そう言うとバジルはそんなにマメに手入れもされていないから、少し伸び気味の芝生を見た。
あたしは黙ったままで、バジルを見ていた。
同時に、頭の片隅には1点の陰があって、そいつがどうにもあたしを明るくさせてくれないから、あたしは苦しんでいた。
そういうようには見えなかったかもしれないけれど。





殿。」





ふいにバジルがあたしの名前を口にした。優しい声は静かな空気に溶けたみたいで、あたしの耳には柔らかくぼんやりと入ってきた。





「この木、沙羅双樹ですよね……?」



「あぁ……うん。多分そうだと思う。よくこんなの知ってたね。」



「前に親方様に教えて頂いたんです。仏教について教わったときに。」





へぇー……あの家光さんが、ねー。イメージと合わない。





「仏様のお話はあいにく忘れてしまったんですが、この花の楽しみ方は覚えています。」



「楽しみ方……?」



「落ちた花を愛でるそうですよ。」





フーリューですよね。とバジルは言った後、まだ落ちていない花を見つめた。





「なんて儚い……。」



「そうね……。」





正直、家にありながらあたしはこの木のことなんて全然知らなくて、なんだかこの木に対する見方が変わった。
白くて小さい花。なんて、儚い。





「この木にまだついている花は今の 殿みたいですね……。」





そう言うと、おもむろに木から1つだけ花を取って、下に落とした。





「落ちるなんていう、哀しい経験があるからこそ、沙羅双樹は美しくなれるんです。」





そう呟くとバジルはあたしをずっと見つめた。










あたしの傍にずっとあったのに、あたしが最近まで気にも留めていなかったたった1本の木と、
あたしの傍にずっといてくれたのに、あたしが想いに気付けなかった彼とが、あたしを救った。